鎌倉の鬼門を守る位置に頼朝を守って死んだ与一の霊を弔った。
かつては広大な敷地をもっていた寺だったそうです。この周りには職人なども集められ、鍛冶ケ谷などの地名も残っています。源氏衰退とともに荒廃したとのことですが、北条泰時の娘、小菅ケ谷殿によって嘉禎元年(1235年)に新阿弥陀堂が再建されました。そのときの阿弥陀三尊像は、国の重要文化財に指定されていて、本堂脇のコンクリート作りの堂の中に安置されています。初期の本尊と伝えられる阿弥陀如来像もあるのですが、鎌倉期の作で県の重要文化財となっています。小菅ヶ谷という地名も残っています。
鎌倉幕府執権北条家の作った新しい阿弥陀三尊像のほうが国重なんですよね。
バス停稲荷森あたりからすこし南側の住宅地にはいって小さな川(いたち川)をわたったところにあります。いたち川の名前の由来もこのあたりが鎌倉への出入り口宿駅になっていたなごりとのことで、「出立ち」というのが変じて「いたち」になったらしいです。いたち川は蛍がみられるところがある川でもあります。
徒然草の吉田兼好は「いかにしてたちにし日よりちりのきてかぜだにねやをはらはざるらん」と詠んでいるそうですが「相模国いたち河という所にてここの名を句の上にすえて旅の心を」と題して詠んだそうです。
ところで、このお寺、広大な敷地を持っていたのですが、鎌倉の鬼門を守るというのは宗教的な意味だけではなく、鎌倉の裏山から鎌倉にはいるところに一大軍事要塞として置かれたという意味もあったそうです。今のお寺の面積とは比べ物にならないぐらいの広い敷地だったようです。
ここは横浜のグランドキャニオンの記事で書いた住宅街へ上る坂道をのぼりきったあと、その山を降りたところにあたります。
入り口のところと、本堂です。
この寺の由来がかかれてますがだいたい上記のような内容です。
本道裏にあるというのがこれですね。佐那田与一義忠の実父、義実の墓でしょうか?
これはさらに北側の山からとったもので左側のこんもりとした木々が固まっているところがお寺です。たぶんこの写真におさまっている範囲は上の住宅街もすべて鎌倉幕府のときには全部お寺の敷地内だったと思われます。さらにもっと西側もお寺の敷地内であったと伝えられてます。
鎌倉時代ゆかりの地、鎌倉の要衝と鎌倉の鬼門ということで、横浜ですが紹介しました。
鎌倉ゆかりのものっていうのは、横浜側にもけっこう残っているものです。
先日は、当ブログ“風の色”の鎌倉の記事にトラックバックをしていただきありがとうございました。
こちらのブログを拝見させていただきましたが、とても詳しく鎌倉を紹介されていて、とても楽しく、また勉強になりました。
わたしも、穏やかで眩しい風が吹く、鎌倉、江ノ島、湘南がとても好きです。
少し遠いので、なかなか出かけられませんが四季折々に訪れてみたいと思っております。
鎌倉を散策するガイドブックとして、こちらのブログを参考に拝見させていただきます。
素敵な湘南の風の発信を楽しみにしています。
鎌倉・江ノ島・・・
埼玉県民の僕にとって憧れの地です。
先日逗子に行ったのですが
坂が多いですね。。。
山と海があるからですかね?
今後ともよろしくお願いします